自分を育てるもの 1-4

「生きる」を楽しむ

始まりがあれば終わりがある。覚悟が決まるまでは微かな希望を持ち続けるもの。しかしその希望が費え潔く幕を引く決断をするのも人生。やり切ったことに感謝、出会いに感謝、何よりそれを許してくれた家族に大感謝である。

今回は「自分を育ててくれたもの 第一章 ゴルフ」の最終回となります。

5.リタイヤ

陸上からゴルフへ

以前にも書きましたが、ゴルフとの出会いと始めた時の状況をもう少し詳しく書きます。

学生の頃からやり投げをやっていた。腰痛に悩まされ何度辞めようかと思ったものだが、やり投げが好きだったこともあり、背筋、腹筋、下肢の強化を図り腰痛の発症を抑えつつ何とか10年ほど現役を続けられた。入社4年も過ぎると抱える案件が増え、また複雑になった事も有り、時間の制約が多くなり練習量、競技会参加共に減り現役を続けるのが厳しい状況となっていた。そんな中、ある大会に出場した際、何投目か覚えていないが投げ終わった瞬間右膝に軽い痛みを覚えた。初めてである。その後鎮痛消炎剤を何度か塗り痛みを軽減させ競技続行し終えたが、徐々に右足に力が入らなくなり、歩行も容易ではない状況で翌日病院に行ったら靱帯損傷との診断をされた。同僚らの応援をもらいながら加療中も休まず何とか仕事は出来たが、挫折と言っては大袈裟かもしれないが、陸上を辞める決断をする。

膝の怪我が回復し、以前ほど激しい運動は出来ないにしてもジョギング、中程度の負荷を掛けた筋トレは出来るまでになっていた。陸上辞めてから2年程経つと、運動した成果が目で見て分からないという物足りなさを感じ、何か無いものかと考えていた時期にやり投げを指導してくれていた先輩にゴルフはどうだと誘われ少し真剣に考えるようになる。2~3度誘われ断り切れずついにクラブを購入しゴルフの魔力にハマることになる。始めた当初は寝食を惜しみレンジでボールを打ちまくった。不思議と膝の状態を気にすることなく打ち込めた。ボール打ちだけではなくゴルフに必要なフィジカル、メンタルもほぼ思うように鍛えることが出来たと思う。コースデビュー後も手前味噌ではあるが、世間が言っているペースよりも早くシングル入り出来たのがその証左だと思っていた。

競技志向からの転換

日本に居る頃は、年数回ゴルフショップのコンペに参加したりもしたが、メインは月例会、クラブ選手権に向けて練習しプライベートでラウンドする時も競技会を想定しバックティーからひたすらスコア改善を目指してプレーしていた。日本を離れてからも各駐在地で月例会、選手権があれば参加していた。ただ、日本と違いルールに疎いというか、覚えもしない、当然理解していない、そんな出鱈目な参加者が多く、全く緊張感が無く数回参加したら「もういいや」となる。インドネシア駐在の頃は日本人も多数参加していたし、現地の方以外にもシンガポール、オーストラリア、イギリス他数か国の方々が参加し、ルール、マナーについても酷いプレーヤーを見ることは無かった。タイに行ってから特にタイ人のルールに対するレベルの低さには到底付いていけるものではなかった。確か2回ほど参加したが、それ以降はエントリーすらしなかった。タイ日本人会のゴルフ部へのお誘いもあったが、偶々か一部の方に限った事なのか、日本人会ゴルフ部は偉いんだみたいな態度を目の当たりにしてしまい、居場所としては適当ではないと思い、お誘いを断った。そんなことも有り、長年住んだ東南アジアではもっぱらプライベートで1~2組程度でプレーすることが多かった。変化を求めるかのように年数回自身でコンペを主催したりもした。自身のコンペはなるべくルールを理解してほしくて、スコアだけではなく、ルール問題の正答率をH.Cに加えるなど工夫をした。お客さんとの接待にも駆り出されることが有ったが、スコア、ルールの理解度、マナー等ゴルフに関してのレベル差が大きく、お客さんから再度求められてもこちらからお断りして二度目が無い方が多く居た。ただ、取引先の中には向上心を持った方が居て、自身の主催コンペに参加してもらい、時には同じ組でプレーした事はあった。ある程度ルール、マナーの理解度が深まりプレーヤー同士でハザードの処理について話し合う場面など、気持ちのいい行動が随所で見られるようになり間違った事ではなかったと報われた気がしてならなかった。

東南アジアに出てから継続して参加する競技会も無く、少し緊張感の無いゴルフに浸かることになるが、自身のゴルフコンペでは先ほども書いたようにルール問題を絡ませたり、ルールを軽んじる事無く、更にはゴルフとは飛ばさなくてもスコアは出せる、いわゆる「上がってナンボ」を実感できるやり方を心掛けた。これまで様々な形式でコンペを開催してきた。いくつかその形式を紹介します。

1.新ぺリア方式

多くのコンペで採用している形式で、H.Cの算出方式等の説明は不要かと思いますので割愛します。コンペに因ってはトリプルボギー、ダブルボギーでカットし上限を設定することが多いのですが、自身のコンペでは上限無し青天井H.Cとしていた。順位を決めるのは二の次で、ルール、マナーを一つでも知り体現してもらうのが主目的だったのでH.Cも拘らない事に決めていた。

2.オネストジョン(隠しホール前半3、後半3計6ホール)

オネストジョンについても詳しい説明は不要かと思いますので割愛します。隠しホール前半後半2つずつというのが主流だと思いますが、2つずつだと結果発表の時間が早く感じられ何か物足りない感じがしたので、少しでも時間を掛けてドキドキ感というか雰囲気を盛り上げられれば良いかなと思い前半後半3つずつ計6ホールの隠しホール形式にした。

3.アイアンオンリー

字の如くアイアンだけでプレーをする形式(グリーン上は当然パター使用)。自身のコンペに参加していた方々にはH.Cを付与していたので、順位はH.Cで決めていた。当然ながらと言っては語弊があるかもしれないが、ハイH.Cの方が通常の14本セットでプレーするより良いスコアが出る傾向にあった。1Wのティーショット、2打目以降のウッドのミスが減る事と、レベル相応の刻むプレー、直進せず迂回するコースマネージメントがスコア改善に寄与しているようであった。

4.クラブ3本

パター以外3本計4本のみ使用であるが、使用クラブはスタート前に決め、途中で組み合わせ変更は不可。どのような組み合わせでもOK。順位はH.Cにより決める。

5.ワンクラブ

自身のコンペに参加してくれている中でも特に向上心の高いメンバー4名でH.C無しスクラッチでの勝負。6番アイアンのみ使用(グリーン上は当然ながらパター)。6番にしたのはパター除いた13本のクラブの中間であるとの考えからである。

6.Par-3 1W縛り

こちらも字の如く、全てのパー3のティーショットに1Wを使用する。池が絡んでいないレイアウトなら大概は手前から転がす方法を取り、浮島だと水切りショットに挑戦したりと、うまく行くも行かぬも多彩な技を出そうと、いわば個性が出る形式だと思う。中にはティーを高くしテンプラさせるか、かち上げるアッパー軌道で打とうとし、思いとは裏腹に芯にしっかり当り倍の距離を打ち虚しくもOBゾーンに入れてしまう人も居た。歓声と感嘆そして笑いが止まらない、盛り上がる形式だった。スイングの幅と距離を知る上でも有効な形式かなとも思う。

7.ドラコン対決

当日の主役(主に歓送迎、誕生日)が常にオナーでPar-3以外の全14ホール主役とドラコン対決を行う。オナーには旗を14本持たせ、フェアウェイに残ったら旗を立て、外したら旗は持ち帰り。持ち帰った旗の数に決められたレートを掛け、その分を食事代に回す。オナーの旗をオーバー出来なかった参加者はその数に同じレートを掛け、それを食事代に回す。前半終了時点で旗が7本以上残った時のプレッシャーは相当なもので、後半傷口を広げないように1Wを使わずアイアンでフェアウェイに残す作戦に出る人まで。ただ、普段からやっていない事を急にやるので、悲しいかなチョロ、チーピンが出て全くうまく行かなかったりしていた。主役本人はスコアに関係なく常にオナーという事でフェアウェイキープ以上のプレッシャーが有ったようです。

記憶が定かではないが、2010年頃はまだゴルフコンペの規模にかかわらず馬券というものが存在していた。私自身他力本願的な賭けは好きではなかったので購入することは無かった。ただ、購入を強制するコンペもあり、已む無く適当に購入し、次回から参加することは無かった。当りが出ない場合は次回のコンペに持ち越しというのもあり、繰り越し分と合わせて円換算で数万円獲得する者も居た。次第に世の流れがコンプライアンスとかなるものに厳しくなり次第に無くなりはしたが、2022年前半までに3つのコンペで馬券をやっていたようである。

終わりを迎える

10年程前、約30年ぶりに古傷が再発する。1Wで珍しくフックボールが出て左の林に打ち込んだ。ボールのライ自体は悪くは無く、前は木がせり出て真っ直ぐは狙えそうもないが右から左に回せばグリーン近くまでは運べそうとの判断で6番アイアンを選択しアドレスを取った。右足裏に固いものが感じられ、確認したら木の根が張っている事が分かった。無理せずスタンスを狭め出すだけにするか、そのまま打つか悩んだが選んだのは後者。打つと同時に右足が滑り、軽い痛みが走った。次のホールのティショットでは痛みが強くなりプレー続行は諦め上がることにした。2カ月ほど加療のため戦線離脱したが徐々にゴルフを再開した。膝サポーターは必須となり、べた足打法が自分のスタイルだったが、これを機にフォロー時に左足体重になるフォームに変更し右足への負担を減らすようにした。とはいえ歩いているとちょっとした窪みなんかに足を取られ右足を痛める事があり、スイング以上に気を使わなければならなかった。普段の生活でも朝起きて膝の痛みでベッドから降りられない、少し歩けるまでになっても足に力が入らない。原因について全く心当たりがなく、気まぐれな膝痛に悩まされつつやっとの思いで病院へ行ったこと2度や3度ではない。それでも好きな事は簡単に辞められないもの。そのような状態を繰り返している内に2018年頃にはカートに乗らなければ18ホール回れないまで悪化していた。2020年年初から武漢熱の流行で色んな規制が敷かれ自身のコンペも無期限延期とさせてもらった。この機会に完治させるべく治療に努めたが、医師にゴルフを辞めなければ何度も繰り返すと言われ、セカンドオピニオンにも診てもらったが診断が変わることは無かった。日本との往来が自由に出来るのであれば日本で診てもらいたかったが、ワクチン接種回数だとか制約があり諦めざるを得なかった。凡そ2年間続いた武漢熱規制が緩和されゴルフ解禁となったが、この2年間でも数回膝痛を発症させていて、テーピング無しでは動けなくなっていた。サポーターではもはや役に立たなかった。好きな事やっているのだから楽しい気分になるはずであるが、膝痛との闘い、苦しいしかなく、もはやこれまでかとついにクラブを置く決心をする。決めた以上クラブを手元に置くと未練が残るので、4セット持っていたが3セットはリサイクル業者に売却し、残り1セットは長い事自身のコンペを支えてくれた仲間の一人に引き取ってもらった。数カ月後、後進も育っている事も有り長年お世話になった会社も辞め本帰国。帰国後実家に保管していたコースデビュー翌年購入したマグレガー・ターニーマッスル1(アイアンセット)と購入時期は覚えていないが多分ほぼ同時期に購入したダンロップDP-901(パーシモンヘッド)1Wを廃棄処分とした。ゴルフに拘わる小物含め全てを処分、また違った世界があるだろうと思い、自分探しを含め一からやり直そうと改めてゴルフとの訣別を決めた。残された時間が十分ある訳ではないが、何か見つけられるだろうと思えばそれもまた楽しいのではないか。

明日に向かって

ゴルフに関する全てを捨てたというものの、ご多分に漏れず、どうしても捨てられない思い出の品はあるもの。タイに抱いている感情は先に述べた通り良いものは無い。そんなタイでも唯一惚れ込んだゴルフ場がある。タイの南部にある、王族の保養地でもあるフアヒンという地にあるブラックマウンテンである。2007年開場時より毎年数回は訪れていた。ゴルフを辞めようと決めた後、最後のプレー地として二泊三日で訪れ、15年間の思い出に浸り惜別の5ラウンドやらせてもらった。捨てられないものというのはここの小物類。なんだと思われるかもしれないが、持っているだけで落ち着くし、また行こうとの思いを強く持てる。つまり、気持ちは常にブラックマウンテンと一緒、であった。

本帰国からまもなく1年が経とうとしている。次のものが見つかっていないが、焦りはない。ゴルフに出会って38年、終盤は身体がもたず辞める決断をしたが、飽きっぽい性格の自分が長きに渡り続けて来られたのは、自分の成長が実感できたゲームと出会えたからだった。練習、鍛錬をやればやっただけ結果が返ってくる。逆にやらなければそれ相応の結果。仕事に関連して考えてみると、仕事は段取り八分と言われている通り、事前準備の重要性に加え、結果を出すまで問題・課題の本質を見極め適切な処置を考え、成果に近づくならいいが、遠ざかる場合はその見極めとどの時点で修正するか、試行錯誤を恐れず何度でもトライ、諦めずに辛抱強く取り組んで成果につなげる。その為の整然としたステップを設定し必要な段取りを行う、そのプロセスがゴルフに非常に良く似ていて、狙った成果が出た時の喜びはゴルフに近いものを感じたものだった。加えて、仕事もゴルフも心から仲間と呼べる人達が居た事も大きい。ゴルフは人生の縮図とよく言われるが、人生がゴルフではない。奇しくもゴルフを辞める時期と仕事の引退が重なりはしたが、どちらも悔いはない。仲間には「エージシュート狙ったら」との進言もあったが、カート乗って迄ゴルフをするのは自身の信念から外れることでもあるし、自身の健康管理が出来なかった結果なので、潔く受け入れ次に進むということである。

最後に、ゴルフ、仕事、そして多くの仲間には心から感謝したい。そして好きな事を好きなだけやらせてくれた家族にはこの先も頭が上がらないほど感謝している。70まで2年弱しかない老体ではあるが、恩返しの真似事の一つでも出来ればと思っている。

タイトルとURLをコピーしました