続・ゴルフに見る人間模様 去りし者-2

人間模様

今回はゴルフの接点が少ない、回数にしたら1~2回ほどご一緒した程度なので、じっくり人間性を観察出来ていない、三名の方について。三名の方は、日本ではなく海外での起業を実現され、成功を夢見ていたはずであるが、日本との差、文化、習慣、法律等の違いを痛切に感じつつ、自分なりにやれることをやったと思うが、意に反してというか運命とでもいうか、現地の荒波に抗いつつも、その荒波に飲まれた、そんな形で私の前から去った人、[去りし者]について書いていきます。

建設業

お二人に関しては、東南アジア駐在初期の頃、内装工事関係で短期間のお付き合いなので、深堀出来るほど観察出来ていないが、一つの記録として残しておきたい。

1980年代後半から1990年代初めに掛けての話。インドネシア領バタム島というところに進出を決め、先ずは自社工場では無くレンタル工場で操業する事にした。シンガポールの政府系が運営する工業団地公社より外箱(建屋)を借り、内装はある程度制約はあるものの、自由に工事を行える。撤収時に原状復帰が原則なので、原状復帰出来ない工事は、やってはならないということになる。工業団地の運営側が紹介するのは、どうしても現地の業者が多く、コミュニケーションエラーに因る、仕様違いで工事されても困るので、日本人が代表になっている、2社を日本人会の方より紹介してもらい、相見積もりという事になった。現地を見ながら仕様確認をする段取りになっていたが、もう1社の日本人が、待てど暮らせど姿を見せず、もらっていた名刺の番号に、何度掛けても連絡が付かない。日程が押していたので、待っている訳にもいかず、仕様確認を行った1社に発注することにした。

Nさんのケース

仕様確認当日来なかった方はNさんといい、この方とは、数か月前現地視察した際に名刺交換していた。昼食を取ったゴルフ場で、偶々顔見知りの方と会い立ち話していた時に、数人の方とこれからプレーするのだとかで、急いでいた様子だったが、こちらがまもなく進出する事を知るや、名刺を差し出され交換に至った。日焼けした顔、筋肉質な上腕、少し雑な名刺の出し方等から、こういっては何だが、いかにも土建屋さんという言葉がぴったりな方だった。

内装工事も後半に差し掛ったある日、Nさんがひょっこり工場を訪ねて来た。なんでも、仕様確認の前日、他の現場で労働者達と揉め事が起き、現場の事務所(コンテナ改造したもの)に閉じ込められてしまった。携帯、パスポートを取り上げられ、見張り役も付いて監禁状態に。数日経った頃、監視の目が緩んだ隙に逃げ出し、警察署に駆け込み助かったのだとか。後日、日本人会の方から聞いた所によると、Nさんが監禁された理由は、労働者への賃金欠配遅配。それも1度や2度では無かったと。そのような事が日系企業には既に広まっており、工事を発注しても、工期通りに出来無いかもしれないとの懸念から、だいぶ仕事量を落としていた。順調な時は週の半分以上ゴルフ、接待が仕事だったといっていたし、日本人に限らずインドネシア人、シンガポール人にも顔が広く、現地では知らない者が居ないほど有名だったようです。裏返しとして、そうなるには相応の金を使っただろうし、使えるほどの収入が有ったのだろう。小金を持ったが為に、身分にそぐわない生活をして散財したのではないかと、ふと思った。ゴルフの腕前はお世辞にもうまい部類では無く、いわゆる営業ゴルフ、オリンピックも相手に勝たせる為に、最後の詰めを敢えて外す、見え透いた感じで相手としては面白くない、避けたいタイプであった。

そして[去りし者]に

手堅い商売をやっていれば、酷くならなかったのだろうが、労働者との揉め事だけでは収まらず、シンガポール当局より脱税を指摘され、収める金も無く収監。その後噂すら聞こえて来なくなった。

一時の調子の良さで舞い上がったのか、仕事に限らず山もあれば谷もある。成果は自分一人の力で得られるものではない。抱えるスタッフ、従業員、更には家族等々関係する人達が、支えている事を理解し、自分よりも彼等第一であれば[去りし者]にならなくて良かったのでは。身を律し、計画的で堅実な経営を心掛けるのが、経営者のあるべき姿ではないかと、思わずにはいられないケースだった。

Tさんのケース

さて、Tさんについてだが、我々の工事が終わった後も、順調に仕事を増やしていたようだ。新規に限らず追加の改装工事といった小さいモノまで、仕事を選ばず忙しくこなしていた。人柄と言い、スタッフ含めた周囲の信頼も厚く、いわば海外で成功した部類に入るだろう。ゴルフは日本人会のコンペで一度、同じ組でプレーした事がある。他の二人が少し騒がしく、1打毎に何か言わないと次に行かない、出来れば避けたいタイプだったので、Tさんの静かな落ち着いたプレーぶりが、余計に記憶に残った。普段シンガポールで暮らしているTさんは、バタムでの仕事が終われば帰る生活をしていたので、一緒に飯を食べる機会が無く、プライベートの話をしたことも無く、日本でどのような仕事、生活をしていたか聞くことはなかった。

乗っ取り

バタムでの企業進出が一段落し、Tさんの仕事が減り始めた。同時に一部の日系企業が中国へ移管する動きが出て、シンガポール、バタムでの落ち込みをカバーするかのように、Tさんも中国は上海への進出を決め、日本人会のゴルフコンペ含めた行事で顔を見る事が無くなった。数カ月だったか1年近く経った頃だったろうか、よく使っていた日本食居酒屋でTさんの話題が出た。残念ながら良い知らせでは無かった。中国に行っている間に、ビジネスパートナーに会社を乗っ取られたとの事。信頼していたスタッフもそちらに流れ、資産全て名義変更され、上海での登記もTさんではなく乗っ取ったパートナーだった為、すべて失う事に。嘘か本当か、そのビジネスパートナーは、Tさんの奥さん(シンガポール人)との事だが、真相は不明である。ただ、Tさんの会社と言うのは表向きだけで、会社登記、銀行名義等パートナー名だった為、Tさんは手も足も出せず、言われるままに放り出された形だという。

そして[去りし者]に

Tさん自身は信頼の置ける良い人ではあったが、組む相手が悪かったのか、パートナーが途中で気が変わったのか、冷淡な言い方をすれば、見る目が無かった、ということか。日本人と同じではないし、簡単に信用してはいけない。また、特にビジネスに関して言うなら、契約内容をしっかり理解し、疑義があるなら納得がいくまで説明を受けるか、内容を変えるくらいの事をした方が良い。日本人って、契約書に多少の疑義が有っても、運用で何とかなると思う人が多いようで、後々トラブルになり諦めるケースがある。一語一句でも不自然な部分は、相手が嫌がるほど訴求した方が良い。日本人はどうしても性善説で人を見る傾向にある。日本人の良い所でもあるし、悪い所である。東南アジアの人間、特に経済を握っている中華系の人間を良い悪いと言いたいのではない。彼等は、そもそも文化、教育の質が違う、いうなれば日本人が育つ環境とは、とんでもなく違う。契約書を見ない、理解していない方が悪い、モノを取った人間より取られた人間が悪い、と考える人間は日本人より遥かに多い。生き馬の目を抜くような事は、日常的に起こる地で、自衛手段として気を抜かない事、1㎜でも2㎜でも疑って人付き合いをすること。身近な人間こそ疑って付き合う事。を、学ぶ。

加えて、二人のビジネスは、小規模ながらいわゆるゼネコン。現地の安い労働力で同じ工事内容でも、日本では考えられない利益を稼いでいたはず。入る金の大きさから、周囲の人間に留まらず、自らも金銭感覚がどうにかなってしまう、勘違いをしてしまったのではないだろうか。いずれ金は人を変える。人間関係までも壊してしまう。その罠に嵌ってしまったと言えるだろう。

Nさんのケースは現地の方々、税務当局とのトラブルで[去りし者]に。Tさんのケースは人が好過ぎたのか、隙を突かれ[去りし者]に。

工作機械代理店

Hさんについて

この方に付いては、仕事上関わる機会が多かったので、学ぶというか感じるものが有り、少し長めに書きたい。

起業

日本に居る頃は、工作機械から家庭用品までを扱う商社に勤務。本人は若い頃より、海外での起業が目標だったとの事。シンガポール支社勤務後、帰任せず扱っている工作機械メーカーの代理店として独立した。駐在員時にシンガポールの法律を調べ上げ、周到に準備した上での起業だったと聞く。

初めて会ったのは起業後間もなく。シンガポール人の営業、エンジニアを伴い飛び込みで挨拶というか営業に来た時であった。実直そうで、扱っている機械、装置類にも精通しているようで、説明とこちらからの質問にスラスラと答えていて、こちらが安心感を持つのには充分であった。二回目に会ったのは、こちらから興味のある装置の、具体的な説明を聞くために来てもらった。この日は一人で、午後来るという事なので、終業時間間際の時間だったと記憶している。打ち合わせ後シンガポールに帰るのかと思ったら、泊まるつもりでバタムに来たというので、私以下日本人3名とHさんで日本食居酒屋へ。連日の工事対応、新規顧客対応で我々は疲れていたし、翌日の準備も有るので会食が終わり次第帰る事にした。Hさんも我々が宿舎にしているホテルを手配していて、一緒に帰路に付いた。各自部屋に入り、しばらく経った頃Hさんから電話が入った。なんか言い難そうだったが、外で飲めるところは無いかと言われ、Hさんは下戸であり(夕食でも飲んでいなかったし)、飲みに行こうと言うのは変だなと思いつつ、外に行くことにした。Hさんの目的は、一言で言えば「お姉さん」と遊びたいということ。会食時には、シンガポールに一緒に来てくれた奥さんを、裏切る事は出ないので女遊びはする気も無いし、した事も無いと言っていたが・・・後で判明する事であるが、シンガポールで遊ぶとバレやすいので、シンガポール以外はその限りではないという、ダブルスタンダードであったという話。また、部下を伴っている場合も、勿論遊ぶことは無いと。

現実は厳しい

操業から1年程たった頃だったか、日本から移設した設備だけでは効率が悪いという事で、Hさんの扱っている装置を検討する事になった。標準仕様では難しいので、Hさんがエンジニアを伴いやって来る事になっていたが、直前でリスケの連絡。止む無く翌週打ち合わせを行ったが、その理由は、挨拶時に伴って来ていた営業担当が、①会社情報を他社に渡した、②工作機械の売上の一部を自分の口座に振込ませた(横領)、③間も無く、会社情報を渡したその会社に転職する、が発覚し、裁判に持ち込む準備の為だったと。駐在員時代起業に向け、念入りに調べた事も有り、従業員採用するにも契約書をしっかり取り交わし、通常考えられる不正には抜け道が無いようにしていた。結果、裁判はあっさり勝訴するが、それまで何度か、こちらの都合よりも裁判優先になり、少しやり難く感じる事が多かった。まあ、稀に起きる事なのだろうと、この時は装置導入に至った。しかし、その後詳細不明であるが、元従業員数名を相手に、訴訟を何度も起こしており、また、日本の装置メーカーから製品供給を停止すると通知を受け、裁判と並行して供給停止の撤回を求め、日本へ足を運ぶ事も多く、このままでは、こちらの事業計画が立て難く、そろそろ考え時かと思っていた。しばらくすると連絡が有り、もうどうでもいいかなと思っていたが、一応面談する事になった。裁判の話とかいろいろ話していたが、こちらは日本からの装置供給が出来ないなら、別の代理店か日本から直接購入する事も考えていかなければならない。そんな話をしていく中で、Hさんが提案したのは、同じ性能で安く製作出来るK国メーカーと契約したので、検討してくれないかと言われた。資料だけでは評価出来ないので、実機が出来たら見せてもらう事にしていた。期待もしていなかったが、数カ月後1号機をタイの顧客に納品したという事で、一緒に行きましょうと誘われた。何日も工場を留守に出来ないので、日帰りに近い強行日程で実機を見せてもらった。見てくれは確かに形にはなっていたが、あまりにも日本メーカーの工作機械に似ているのと、細部を見るとK国、C国のパーツを多用していて、仕上げ状態は明らかにお粗末。動きも仕様値より全然遅い。量産工程では到底使い物にならないレベルであり、耐久性も大いに「?」。1号機以降の情報を聞く事はなく、開発・製造を止めたと聞く。予想通りK国メーカーを相手に裁判で争っていると。共同開発だったにも拘らず図面、パーツリスト等の資料を一切渡さず、確たる証拠は無いが、K国メーカーが勝手に、C国でブランドを変えて販売していたようである。ただ、結果は無駄骨だったと聞く。時間と金を掛けても、得たものは無かったと。

そして[去りし者]に

従業員(現職、元含め)との裁判、K国メーカーとの裁判、合わせると5~6件程争ったようである。大きな利益は出ないにしても業績は悪くなかった。しかし、ほぼ毎年何かしらの裁判を抱え、裁判費用が会社の経営を圧迫したのは間違いない。ある時期を境に、取引条件が以前のような納入検収後100%払いではなく、50%前払いに変わり、それもメーカーへの支払いと言われ、理解に苦しむ内容に変わる。Hさんの機械メーカーからの信頼、信用度が落ちた証左だと思う。いきなりメーカーへ払ってくれと言われても、ベンダー登録もしていないし、登録しようにも数週間、ややもすると数か月を要する。それなら日本側で取引の有る商社か、シンガポールの他の商社から購入した方が面倒ではないので、次第にHさんとの取引を減らす事になる。我が社以外も同じように考えたか、購入先を変えたのであろう、次第にHさんの会社は業績を落としていく。噂も聞かなくなった頃に、私はタイに移ったのだが、古くから懇意にしている機械商社の方曰く、Hさんはここ数年体調を崩し(大腸ガンらしいと)、会社を閉じて療養の為日本に帰ったとの事。そういわれてみれば、私と疎遠になった直後から、日本と行ったり来たりと聞いていた。もしかすると、検査入院だったりとかしていた頃なのかなと思った。また、親の相続で実姉と裁判沙汰になったのも、同じ時期だったようで、重なる時には重なるものだと、因縁めいた感すらした。

ケースから学ぶ

Hさんの人柄については、自分を必要以上に大きく見せる(見せたい)、悪く言えば見栄っ張りな部分があった。シンガポールに暮らしていて、食事は日本食、それも料亭か高級鮨店がメイン、車は日本車(カムリと聞いている、日本の価格の3~4倍)、シンガポールとお隣マレーシアのゴルフ会員権を持ち、年2回機械メーカー、顧客を集めてゴルフコンペ開催、子供二人は現地インターナショナル校へ通わせていた。言ってみれば、見た目絵に描いたような、日本人成功者を起業早々から演じていた。今になれば「張り子の虎」だったのだろう。地に足の着いた経営、身の丈に合った経営(生活)をしていれば、社内の多少のごたごたも、出血を伴わない解決方法を見出す事も可能だったはず。何がHさんを裁判へ走らせたのか。自己防衛のためにシンガポールの法律を事前に学び、顧問弁護士を抱えたにも拘らず、会社経営よりも正義を貫こうとしたのか、それともプライドを優先したのか、裁判に明け暮れた半生のように見える。人として、経営者として松下幸之助公を師と仰ぎ、そうした一端も有ったので、尊敬する部分も有った。しかし、進む方向、舵取りを誤ってしまったのだろうか。とはいえ、一部からは奥さんの目の届かない所(例えばタイ、ベトナム)では、お酒こそ飲まない(飲めない)が、女遊びは派手にしていたとも聞く。数千ドルの入会金が取られるラウンジ(言ってみれば飾り窓)の会員になり、接待と称して現地に行けば、夜な夜な繰り出していたというし、どちらが真の姿か私には分からぬが、ビジネスの成功者と言う姿には、少し遠いかなと言える。また、K国メーカーとの協業と言うか共同開発にしても、同じ業界に居れば、当然要求レベルでは無い事、普通の感覚であれば分かるようなもの。日本メーカーと何が有ってK国を選んだのか知らないが、うまく行くイメージは全くないはずなのに。日本の機械メーカーに取引を断られたのではと想像が付くが、あくまでも想像である。八方塞になり、その先の無い崖、転落しか見えない道を選んだ理由は何だったんだろう。夢、野望?。皆が歩いた後の道を歩くのは簡単かもしれない。それでは満足しないのか。誰もやらなかったことをやってこその価値もあろう。ただ、あまりに代償が大きかったのではなかったか。自らが追い求める事に夢中になり、背負っているものを忘れるかのように散財した。会社、企業は個人のものではない。松下幸之助公が遺した言葉「企業は社会の公器」を理解し、理性を持った経営をしていれば、[去りし者]にはならなかったのではなかろうか。間違っても、正義を貫いたとは思えない。

 *散り行く桜-春は儚い

最後に一言

サラリーマンしかやってこなかった私が言う事では無いが、人としてどのように生きるかは、立場がどうあれ「原則」はあるはず。それを全うすれば、成し遂げられる事の方が多いと考える。起業するなら、誰もが成功を思い浮かべ、邁進するであろう。思うような結果を残せず、志半ばで舞台を降りる結果になったのには、それ相応の要因、原因がある。まして、異国での起業となれば、考えている事の半分も出来ないだろう。腹八分とはいうが、海外特に東南アジアでは腹七分どころか、五分でも良いくらいと考えるのが、ちょうどかも。三名の方々を思い出すと、そのように思えてならない。

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