自分を育てるもの 1

「生きる」を楽しむ

何が自分を育ててきたか、家族、学校(先生含め)、社会、当然これらに大きな影響を受け育ち現在に至っているが、それと同等程度に影響を受けた出会い、より自分を高めてくれたことを書いていきたい。

第一章 ゴルフ

1.ゴルフとの出会い

自分の性格を自己分析すると「飽き易い」に尽きる。

物事に限らず人付き合いも同じ。その自分が辛抱強く結果を出すまで取り組めるように変われたのは、ゴルフとの出会いが大きい。名も無いフルセットを購入し練習に通い始めたのが約40年前。そして10年程前に右膝を痛め、それでも無理にゴルフを続けた結果、1年前ついにゴルフを諦めざるを得ない身体に。ゴルフは出来なくなったが、ゴルフをやらずに今に至っていれば「飽き易い」性格は変わるはずもなかっただろうし、人生・仕事双方の目標、そして成果も違っていただろうと思う。

ゴルフの異質さを知る

そんなゴルフとの出会いは中二だったと記憶している。グランド外野フェンス近くでアプローチの練習をしていたバスケット部の顧問に帰りの挨拶をしに行ったら、お前もやってみるかと言われ握り方だけを教わり数回打ったのが出会いと言えば出会い。うまく打てたかどうかさえ記憶になく、面白いとも思わなかったのでそれで終わり。時は過ぎ20代半ば、呑んで明け方近くに帰宅したある日、寝たら仕事に間に合わない、寝ずにいようと思いTVのスイッチを入れたらゴルフ中継をやっていた。夜中にゴルフとはご苦労なことだなと思ったら海外からの中継で、他のチャンネルはどうでもいいような内容だった(砂の嵐だったかも)のでそのまま点けておいた。カップから相当距離のある位置から歩測したり、しゃがんで何か睨むように見たり、パターを指でつまむようにぶら下げ片目で見たりとボールを打つまでの時間が長く、展開が遅くつまらないなぁと画面を眺めていたら、打ったボールが蛇行しながらもカップに引き寄せられるように入ってしまった。打った本人は驚きもせず、狙った通りに打ったら入ったといった顔をしていた。それから二人のプレーヤーが、距離が長くても入れたら入れ返す、その応酬が続き自分まで熱くなったのを思い出す。当時大好きだった読売巨人軍の試合以上に熱くなった。その熱さも異質なもので、表現のしようがないほどだった。その一人が日本人と知り驚き、優勝してくれることを祈りつつ勝敗が決するまで毎日(毎朝)中継を見ることになり、それからゴルフという競技というかゲームに興味を持つようになった。その中継こそ今でも語り継がれる1980年、青木功さんがバルタスロールでJ.ニクラスさんと予選から4日間、追いつ追われつの激闘を繰り広げ、惜しくも二位になった全米オープンだったのを後年知ることとなる。

2.生活の一部に

その後何度かゴルフの中継を観ることはあったが、全米オープン程の興奮を覚えず次第に観る回数も減っていってしまった。そんなある日、言い出したら引き下がらない先輩にゴルフやっているかと聞かれ(そもそもこの先輩がゴルフやっていること自体知らなかったが)、やってないなら始めろと言われ、その週末ディスカウントショップで一番安いゴルフセットを購入することになった。時間も金も十分ではなかったし、仕事の方も社内で新しい事業の立ち上げ準備が進んでいたことも道具を真剣に選ばなかった理由であった。ただやるからには中途半端では嫌な質なので、寝食を惜しみ仕事に支障が出ない範囲内で練習に通い、3か月が過ぎた7月末土砂降りの中デビューを果たした。天候もコースコンディションも最悪のデビュー戦ではあったが、中継を観るのとは桁違いの新鮮な感覚を覚えた記憶が今でも忘れられない。大袈裟に言えば、これを境に私の生活、いや人生が変わったことは間違いない。デビュー戦以降以前よりも増して練習場に通い、通うというより出勤しているかのように平日の早朝と夜は練習場に居た。時々ボールのサービスを受けたり、営業時間を夏場は朝4時からにしてくれたりと練習場の好意で好きなだけボールを打つことが出来た。その甲斐があったのか、年末に行った4戦目のラウンドで90台、翌年5月には80台と順調にスコアが出せるようになっていった。

人生色々とはこの事か

人生思うように行かない事の方が多いのは世の常で、サラリーマンの宿命とでもいうか、その夏の終わり頃海外出張の指示が出た。それも4~6か月という年内のラウンドはもう諦めるしかないものだったが、業務命令なので素直に従わざるを得なかった。出張から戻ったのが翌年真冬の2月。遅れを取り戻すかのように打ちまくったがどうもしっくりこない。手にマメが出来るタイプではないが気付いたらマメが破れ、うまく行かない不安を抱えたままシーズンに入り、やはり散々な結果に。出張も頻繁に入るようになり、前年までのような練習が出来ない環境で如何にレベルを上げるのか、ボールを打たずにレベルアップを図る方法を無い知恵を絞り考え試してみた。出張時にはクラブなど何も持っていけないのでシャドウスイングとタオルを使った素振り、身体のパーツ一個一個の動きを意識して身体を動かし、タオルでの素振りではタメを意識して振ったりなど。一方自宅では9番アイアンを使い片手、片足の素振り、そしてホームセンターで購入した木の丸棒に乗って不安定な状態での素振り。バランスというか体幹というかを鍛えられると思い、考え尽くことを色々試してみた。しばらく続けていると自分の癖、強化が必要な部分だったりが見えてきて、ボールを打つだけが練習ではないことに気付く。練習場でも以前のように闇雲に球数を稼ぐのではなく、素振りで気付いた癖を意識して、癖を直すのではなくスイングした時の感覚がボールフライトにどのような影響を与えるかを確認しつつ、且つ1球ずつ違う球筋を打ち分けられるように内容重視に変えていった。そしてボールを打ち始める前に10~30ヤードを準備運動と距離感を養うつもりで、2~30球程左右交互に手で下から放り(トスして)距離を合わせる運動も取り入れてみた。通勤時など外を歩く時には電柱間の距離を目測後に歩測しその差をチェックしたり、歩道を歩いていて凹凸と傾斜がどうなっているかコース上を歩くように足裏の感覚を意識した。社内で歩く時は同じ区間を同じ歩数で歩いているか体調と歩幅の関係性をチェックしたり、時間があれば片足立ち、つま先立ちとかちょっとした筋トレもやっていた。起床から就寝までゴルフ中心というかゴルフの為の生活だったように思う。また、この頃利き腕の逆を積極的に使いなさいとよく言われた。バランス良く身体を使えたほうが良いということだと思うが、ご多分に漏れず私も歯磨き、呑む時のグラスを持つ手を、意識して利き腕と逆を使うよう心掛けた。

その成果とは

考え方を変え、行動を変えたその成果は意外と早く出てくれた。念願の70台である。この悪の道?に引きずり込んだ先輩が「ハンディは無し、ここからはスクラッチだ」と言ってくれたこと(悔しさ満開だったが)、どこかの会員権買って競技会出たほうがいいとも言ってくれ、認めてもらえたのかなぁと思い正直嬉しかった。それから暫くして先輩の知人達が推薦人となり、いくらも貯まっていない貯金を崩して会員権を購入することになった。ゴルフクラブを握って3年半、4年目にして分不相応ではあるがクラブライフを始めるに至った。自営業、どこぞの会社の役員さん達、お医者さんなど裕福な階層が多く、とてもではないがサラリーマンですって名乗り難い雰囲気だった。とはいえオフィシャルハンディキャップ(以降H.C)を取得しない事には競技会に出られないので、週末時間があれば朝から一人でコースに行き三名の組に飛び入りさせてもらいスコアカードの枚数を稼いでいた。確か10枚でH.Cの査定が行われると記憶している。そして初めてとなるH.C、12であるとの通知が届いた。月例会への参加を申し込み初月例会に臨んだが、Aクラスだということ、更にはバックティーからだと知り、とんでもない事になりそうだとビビリながらスタート。スコアは満足できるものではなかったし、何より同伴競技者同士のペナルティの処置で揉めに揉めて後味の悪い初月例会になってしまった。キャディさんに言わせると、Bクラスではルールで揉めることは無いとのこと。いきなりAクラスとは飛んでもない世界に入ってしまったと一瞬後悔することに。。。解釈も含めしっかりルールを学ぶ必要も感じ、フィジカル、テクニカルに加えルールも必修科目になり益々ゴルフ色の濃い生活になっていった。仕事もそうであるように、現場に出ると知らない事、自分に足りていない部分が分かるので、非常に楽しいものである。その解決方法を考え試し、結果が出なければまた考え試す。トライアンドエラーの繰り返しは自分を成長させてくれる。ゴルフを始めていなければ気付かないことだったかもしれない。また、以前の自分なら避けていたかもしれない事、嫌なことにも結果が伴うのなら関わるようにしているのは、自分なりに成長している証左かもしれない。

3.日本との別れ

同伴者に恵まれて、とか、H.Cに恵まれてと、よくコンペで優勝者が発する弁であるが、月例会で幸運にもその恩恵に預かる事が二度あり、9ではあったがシングルの仲間入りとなる。この年の理事長杯も手にすることが出来、自分としては最高のシーズンを送っていた。翌年H.C8になると中々勝てないもので、上位に入るものの優勝、そしてベスグロは取れず(片手シングル、スクラッチの常連さんが占めていた)、H.C通りか一つか二つ潜った程度では三位に入るのがやっと。もどかしい状況が続いていたある日、ついにというか新規事業の海外展開の話が進み、インドネシアへ駐在一期生として異動することになった。任期は4年(5年は覚悟しろとも言われたが形式上だけ4年と)。健康診断、予防接種、ビザ取得等々準備に追われ、送別ゴルフも無いままシンガポールに向かった。任地はシンガポールからボートで40分ほどのインドネシア領のバタムという東京23区よりちょっと広い島。シンガポール企業が開発した工業団地への入居の予定で手続等進めていたが、中々うまく進まず数週間シンガポールで暮らすことになる。バタムに着任してからはレンタル工場の改装工事、現地で採用したスタッフ、工員たちの受け入れ、教育、営業活動等々3名の駐在員で全てやらなくてはならず、日本での新規事業立上げの比ではないと皆ゼイゼイ言いながらも楽しく充実した日々だった。着任間もなく日本人会へ入会、ほぼ同時期に日系ゴルフ場のサウスリンクスより会員権の営業に来た。法人会員を購入するにはまだ実績もなく本社に言うのも気が引けるので、私ともう一人の駐在員2名が個人で購入することにした。日本人会、日本食屋さんを通してゴルフをする人の輪が広がり、週末土日は2~4ラウンド回ることが恒例となった。誰がまとめるでもなく朝集まり次第パーティを組んで出発。午後も続けて回りたければ別の方々と組んで2ラウンド目。月一回の日本食レストランのコンペも毎月欠かすことなく参加し、ゴルフが縁で取引が始まった案件もあり、人の縁というのは分からないもの。ゴルフの輪がバタムに留まらず、シンガポール、マレーシアの方々との交流も広がり、同時に仕事も拡大することが出来たのは、ゴルフ様様でしかない。会社費用で日本へ一時帰国出来るのは年一回で、自然と年末年始の日程になってしまい、家族と過ごすことが中心でもありゴルフに行ける状況になかった。後に触れますが、日本でのゴルフは離日した前月に先輩と行ったのを最後に、もう二度とプレーすることは無かった。年間100~130ラウンドを続けている内に、任期の4年はあっという間に過ぎ、既に7年目に入っていた。その年に帰国するか否か打診されたが、ちょうどその頃取引先から声が掛かり悩んでいた時期でもあった。結論として、本社に戻っても規模縮小、リストラを進めており以前の状況ではなく、自分が戻ってもやりがいを持てるのか、家族を養うだけの収入が保証されるのか、とにかく悩み家族と出した結論は誘って頂いた会社への転職だった。その時はこの歳まで東南アジアに居るとは思ってもいなかったが、大過もなく健康で(右膝はダメになったが)やりたいようにやり通せたことは、丈夫に生んでくれた親に感謝すると共に、身勝手を許してくれた家族に感謝である。

次回はゴルフと自分の成長の関係について書いていきます。

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